(主演:ジム“ラバーメン”キャリー)
セ、センセイ、誰かに見られているような気がするんです!
不可解で意味のあるカメラワーク(実相寺ばり?!)。絵に描いたようなわざとらしい街並み。あまりにもつくりものめいてうそくさく、あやしげだが、これらすべてはケレン味なのではなく、ひねくれたシニカルなアイディアを十二分に生かすための必然なのだった。すごい。
冒頭の落下してくる照明に始まって、さまざま舞台装置(らしきもの)が見え隠れし、この街が本当につくりものであることをじわじわと匂わす。やがてカメラがぐっと引き、街の俯瞰で明らかにされるその真実は、そうだろうとわかっていても、見せられたときのビジュアルインパクトに圧倒させられないではいられない。
つまり、もともと虚構である映画が描く虚構の舞台であり、さらにそれを見る観客もまた映画の登場人物となる、3重の入れ子構造なのだ。つまり現実と虚構の境界の喪失である。これは怖い。
最近、一見お涙頂戴的な他人の生活を覗き見するワイドショーが増えてきている。他人の不幸を自分の手は一切汚れない場所、TVの前で、対岸の火事を見るかのごとく楽しんでいる実に下品な行為だと思う。
トゥルーマンショウはここまで、はじめからショウであることを前提として放送されているわけで、現実世界のワイドショーとはちょっと違うかも知れないが、悪の不在、という点では同じだろう。
直接的な悪、加害者は誰かということならば、TVスタッフなのだろうが、実際には視聴率のためにTV人として動いているわけで、そこに悪意はない。個々のスタッフレベルでみれば、誰もがよき人である(はずだ)。なぜ、そんな番組をつくったのか、という問いにはおそらく視聴者が求めるからという答えしかないだろう。だが、反対に大衆は、TVが放送するから見るのだというだろう。結局、加害者はいない。
ただ映画ではトルゥーマンが去っていった後、今までの熱狂をスイッチひとつで切ってしまう視聴者を最後に描いている。だから今回は、一般大衆こそが一番悪い存在として描かれていると読むことはできるだろうか。
結局、無自覚な大衆こそが一番の悪であり、少なくともそれは現実なのだ。
現実とは何か。トゥルーマンにとっての現実とはなんだったのか。
彼の生きてきた人生は第三者によって操作されていたとしても、彼の人生ソレ自体はまがい物ではなかった。彼はあくまでも自分の意志で行動し、決定し、生きてきたのだ。
「自分の人生は誰か(その誰かとは、親でも国家でも神でも可)に操られているのではないか」と、誰しも一度は考えたことがあるだろう。
しかし、それでもなお、自分は何者であるかを考えていくと、最後は自分はやはり自分なのだという事実にたどりつく。
虚構の人生でもそれは本人にとって現実である。トルーマンが生きた人生は、だから彼にとってはまぎれもない真実である。
TVプロデューサーはトゥルーマンの人生を弄んだわけではなく、TVのプロとしての仕事をしているわけだけれど、30年あまりのトゥルーマンと関係はどんな気持ちだったのだろう。生まれたときからの人生を見続けてきた。そして悪い方向へ行こうとすればそれを正そうとした。それはまさに父親と息子の関係なのではないだろうか。演出上では、神とその子というように描かれているが、これは自分は逆に父と子のメタファーだと思った。
ラスト、トゥルーマン最後のあいさつは、父親からの脱却。親離れの儀式である。
と、まあ、こんなふうに、いくつものみかたができる、非常に練られた話なわけです。う〜ん、深い。
しかし惜しむらくは、さまざまなメディアがこの話の根幹のネタ“一人の男の人生を完全生中継”を宣伝しまくったおかげで、前半の普通なようで奇妙な世界、奇妙な画面の理由が、先刻承知の助となってしまっていたこと。もし知らなければ、トゥルーマンと一緒に自分が一体どういう状況に置かれているのかという謎を追って行けたのに。
マイナスポイントはそういうおせっかいなマスコミのせいだよ。プンプン!