(主演:菅野“高笑い女優”美穂)
殺せども殺せども。
原作の登場人物やエピソードをモチーフに再構成したオリジナルストーリー。観た人から、もっと原作に忠実にやってほしかったという声もちらほら聞こえた。確かに、それもわかる。が、一方で、同じなら別に映画にする必要はないという見方もある。そもそも忠実にやったらオムニバスになっちゃうやんか。
俺は基本的には、原作のあるものを映画などにする場合、そのまま映像におこすのはつまらないと考えるほうだ。同じストーリーをやるにしても、せめて台詞ぐらいは変えてくれと思う。特にマンガのアニメ化に多いでしょ、構図もまんまコマ割でつくってしまう作品。それで成功する作品もあるし、傑作と呼ぶに足る作品ができる場合もあることを承知の上で、それでもどうせ新しくつくるのなら、新しい世界をみせてほしいと思うのだ。
この作品は完全オリジナルではなくリミックスであるわけで、そのどっちつかずの部分がひっかかったのかもしれないが、俺的にはオーケーだった。
ホラー映画である。心霊や悪霊に頼るオカルト映画ではないのだ。だから心霊現象的な表現は排除されている。
スプラッタ的要素は、あることはあるが実に控えめ。そもそも富江という話自体が、バラバラにされても増殖復活する女というものであるにもかかわらずだ。ストーリー上では3度ほど富江は切り刻まれているのだが、それがこれみよがしに画面に露骨に出ることはない。とても押さえた感じなのだ。見えない部分でのギニョール等のつくりこみはしっかりやっているようなので、バジェットの問題(まったくないのではいのだろうけれど)というよりは、監督の主義/趣味なのではなからろうか。好ましいかぎり。だって「血みどろノットイコール恐怖」なんだから。
そう、状況の異常さによる恐怖なのだ。富江という存在によって周囲の人間達がどんどん身を持ち崩していく崩壊の恐怖。オカルトみたいにわかりやすい恐怖ではないが、それゆえズシリと深い。実は、伊藤潤二のホラー自体、異質な状況から逃れられない恐怖であり、そういう意味において見事に再現されているといってよいのではないか。
ただ、インディーズぽさの残る絵づくりのおとなしさ、地味さ加減を退屈と思える人も多いかも。キャッチーな演出とはいいがたいからね。観る人を選ぶような気がする。
それに富江の謎を田口トモロヲ演じる刑事が、台詞で全部話してしまったり、富江自身の思いを長台詞で処理したりというのは、ちょっと(役者の、ではなく脚本の)芸がなさ過ぎるのではなかろうか。それぞれ芸達者なので、目立たないけれど。
あれ? と思ったのは富江の性格設定。小悪魔的で、思わせぶりに誘っておいて肝心なときに裏切る気まぐれな性悪猫のような女。実は私、原作をきちんと読んでいませんでした。だから富江のイメージも結構いいかげんだったのですね。もっと受身な性格で、それが相手の加虐欲求を起こさせる裕木奈江(失礼!)のようなタイプを想定していたのだった。
だから、映画の富江は菅野美穂の演技力と相まって、本当に性悪な恐ろしい女を表現しきっているが、ちょっと俺の富江と違うかもと思ったのだった。もちろんだからよくないというのではなく、それはそれでオッケーで、大正解だったなぁ。
と思っていたのだけれど、改めて原作を見返してみると、あれま。富江の性格ってもともとあんなんだったんですね。