(監督:リサ・チョロンデンコ)
通過儀礼にしてはつらすぎる。
クールなくせにウェルメイドな人間模様の物語だった。
駆け出しの編集者と伝説のカメラマンとの出会いと突然の別れ。主人公シドは、成功のためになにをなくしていったのだろうか。認められたいという向上心は人として健全ではあるが、そのために意図しなくても人を傷つけてしまうこともある。喪失することの痛みとそれをさけることのできないもどかしさ。
カメラマンのルーシーは、自分の問題点をわかっていてそこから変わっていこうとして、でも逃げきれずに、自滅していく。人は自分の思うようには行動できない、流されてしまうことの悲しさ。
そう、人の気持ちは理屈じゃない。シドはルーシーを利用しているようにみえて実は捕らえられている。一見、シドを利用しているように見えるルーシーも、実は脆いガラスのようで、グレタにからめとられている。そして、それから逃れようとして結局死んでしまう。グレタもまたルーシーを翻弄しているようで、身動きがとれていない。
女同士の恋愛が軸に話が進んでいくため、レズビアン映画のように語られることが多いみたいだが、それは違うのだ。だって、愛するという感情には、別に男と女、女と女といったような性別は重要ではないからだ。あくまでも人と人。オレも共感するところである。別に性別なんて好きという感情には関係ないじゃん。たまたま好きになってしまったのが、男だったり女だったりするだけで(いや、だから、誤解しないでくださいね。あくまでも思想としての話であって、具体的にそうだということではないっす)。
写真を撮るという行為は、自分は何を見て何を感じたか、つまり自分の視線を切り取る行為だと思う。視線とは思考であり感情でもある。商業写真に関しては、まあいろいろとあるだろうけれど、でもそれにしたって、完全に作業として撮ることはできないだろう。いろいろと本を読んでいると、カメラマンによってはそういう写真に感情をのせるのを嫌う人もいるみたいだけれど、それは無理だと思うのだ。どんなにクールになっても、これが撮りたいというスイッチを入る理由があるわけだがら。
とにかく。いろいろなものがつまった映画である。考えさせられた。