(主演:稲垣吾郎&菅野美穂)
こっちへおいで…
今回は、とりあえず稲垣吾郎と菅野美穂が大画面で見れればオッケー。それ以上は期待しない。てな感じで観にいったのだった。はずして当然、よけりゃみっけもの、てな感じである。
ところが。「予想外によかった」とか「やっぱりダメ映画だった」とか、そういうストレートな感想では納まらない変な感想になるとは思ってもみなかった。
どうコメントしていいのか悩む。確かにマジに怖かったのだ。だが、だから「よかった、面白かった」という気にどうしてもなれないのである。
問題はこういうことだと思う。
話自体は、ホラー色の強い平凡なサスペンスミステリーなのだ。のっけから起こる連続猟奇死亡事件で、つかみはオッケーといきたかったのだろうが、確かに特殊メイキャップに金かけてるなあとは思ったけれど、こっちはその手のこけおどしで怖がれるほど、“ウブなネンネじゃあるまいし”だった。普通ならこのままありがちなミステリーとして話は展開されるはずだった。
ところが中盤、容疑者実相時があっさりと死んで、緑の猿が登場するあたりから、映画の色調がまったく違ったものとなる。
ホラーである。それもオカルト系のそれ。ストーリー自体はミステリーのまま、演出がホラーの手法になるのだ。
オレが「うっわぁ〜」と思ったところは3カ所。
まず宇津井健の自殺。本来の展開ならば、ぎりぎりのところで稲垣に救われて、さあ反撃となるシーンなのに、死んじゃうんだよ。最終的には当事者皆死亡という、とんでもないラストにむけての暴走の始まりのシーンであり、この映画がミステリーでなくなったシーンでもある。
次が、緑の猿=菅野が稲垣の前に登場するところ。振り返ると天井にぶら下がった菅野がにやりと笑う。
そして、エピローグでの稲垣の夢。まんま『キャリー』パターンで、出るとわかってはいたが、やっぱりビビッた。
つまりは(宇津井健のシーンは違うが)恐怖の常套手段をそのまま使っているのだ。その際たるものが白いワンピースに黒くて長い髪の女。心霊写真を見る恐怖だよね。それは映画としての恐怖とは異質なものだ。もちろん、その手法を否定するつもりはまったくないし、そういうタイプの映画もあっていいのだ。ただ、仮にもサイコミステリーと銘打つならば、それ相応のものを期待するのは道理だろう。
確かに犯人を追いつめるべき者達が安全ピンのとられた手榴弾を持ったまま犯人を追いつめなければならないという状況はサスペンスとして怖い。うまいとも思う。しかし、そのせっかくのいいネタを、より活かそうとせず、ホラー的恐怖、オカルト的恐怖を優先しているように思うのだ。
演出手法による恐怖は、つまり結局お化け屋敷と一緒なのだ。映画として、ミステリーとしては、ずるい技だ。だから、ただ怖かったからよしとするのは、果たしていいのかどうか、混乱している。
原作は完全な社会派ミステリーで、催眠治療をめぐる世間の常識との戦いが中心のドラマである。だが、映画では、はっきりいって“恐怖の催眠暗示”な内容であり、原作とはまったく正反対のことを描いているように思う。別に原作至上主義ではないが、それにしてもここまでまったく違う、というより原作が否定した催眠術に対する視点をそのまま描いているのは、さすがにどうかと思う。
実は別に催眠術なんかどうでもよかったんじゃないか。催眠というのは単なる方便で、本当はホラーを撮りたかったのではないか。ホラー映画的味付けではなく、ホラーそのものを、だ。話の枝葉を除いて基本コンセプトだけをみると、フォーマットとしてはホラーそのままなんだよね。禁断の魔導書/パンドラの箱を開けてしまった故に、悪魔/死霊/妖魔が出現し、ジェノサイドが起こる。ね、骨子だけみるとホラーそのものでしょ。
結局、このどっちつかずのアンバランスさがオレとしては納得できない部分だったみたいだ。