(主演脚本監督:北野武)
行って、そして帰る。
うーん。世間でいわれているほどの感動する作品ではない。面白いともおかしいともつかない、さりとてダメだと切り捨てることもできない、のほ〜んとした変な味のある映画だった。
ロードムービーとしてのダイナミズムは、人と人との出会いと別れにあるのだと思う。そしてこの作品もまたロードムービーであり、人の出会いで話が構成されている、しかし天の邪鬼なことに、そこで起こる感傷を拒否しているつくりなのである。あえて感動させる演出を避けている。これはたぶん意識してそうなったのではなく、監督の無意識下の作風なんだろう。ただ、それが徹底されているわけではなく、ところどころにあざとらしい泣かせのエピソードが入ってくる。全体的には“クールな視点の省略表現”演出なのに。そこらへんのアンバランスさが気になって、ちょっと乗り切れなかった。
笑いのシーンも、きちんと仕込まれたものから、反射的なものまでバラバラで、爆笑というよりはくすぐり的。で、これまた先の全体的なクールな色調とちょっとミスマッチで、笑っていいものかどうか悩むうちに次のシーンにいっている。
すごいと思ったのは、話の構成で、普通なら少年正男が母親と出会い、天使の鈴に至る一連のシークエンスをクライマックスに持ってきて『あふれ出る感動の爆涙』にするところを、あえてはずしているところ。だって「母親は再婚して別の子のお母さんになっていた」なんてのは、絶対、泣きつぼなんだ。であるはずなのに、それを利用しない。
そこで映画としては前半終了で、そこからまだ後半の話がある。つまり、“行きました。”ではなくて、“行って来ました。”なんだけど。
その後半で描かれるのは、正男を慰めながら、ひょんなことから知り合った寂しい大人たちとキャンプ生活を送るというもの。たわいもない遊びを楽しむ大人たち。しかしそれは楽しくはあるが、とても寂しいオトナ達を見せてもいる。
そして、菊次郎を捨てた母親が入っている老人ホームを菊次郎が訪ねるシーン。実は菊次郎自身もまた母親に会いに行こうと思っていたということがわかる。というわけで、この話が『正男の夏』ではなく、『菊次郎の夏』である理由が判明するわけだ。結局、寂しい男たちの夏の物語なのだった。
好き嫌いというのもあるんだろうけれど,俺としてはちょっと映画に乗り切れなかった感じである。すれちゃったのかも。