(監督:チャールズ・スターリッジ)
コティングリー妖精事件の真相真理と深層心理。
単にきれいで可愛らしいだけの少女趣味の映画ではなかった。
そこに示されるのは、信じることの真実を知る少女達。嘘を暴くことが大命題であると思う大人達。悲しみから癒されたがっている大人達。失望や欲望、そして希望である。
まず、なによりも目をひくのは、舞台の美しさである。ビクトリア朝時代の、ヨークシャー地方の田園風景、重厚なロンドン市街。「これを観るだけでも価値あり」という気にさせるくらい美しい。そして惹きつけられた目はそのまま、映画のマジックに取り込まれていくのである。
あまりにも有名な妖精写真の顛末と、それに関わった人々の想いをつづる作品である。映画では、写真自体はトリックだったかもしれないが、しかし妖精は実際にいたのだという解答を描き出している。他人には見えないからといって、いないということの証拠にはならない。
しかし、本当に重要で必要なことは、客観的にいるかいないかといった事実ではない。その人にとっての真実なのだ。
少女たちにとって、いたのかいなかったのかということであれば、彼女たちにははっきりと妖精が見えていたはずだ。はたから見れば、それは思いこみであったり、勘違いであったりするのかもしれない。しかし彼女達の主観にとっては、妖精は確かにいたのだ。
そして、それを信じて人生を全うしたとするならば、妖精は存在する世界こそが真実である。それは誰にも奪うことはできないものだ。
これは、別に妖精や神様に限っての話ではない。超能力や心霊現象、その他もろもろのオカルティズム、あらゆることにおいでいうことができる。少なくとも信じることにおいては、それでいいのだと思う。それが救いとなるのだからね(ただし他人様に迷惑がかからなければ、だけど)。
秘密を暴いて一儲けを考えようとする大人達、無批判に信じきってしまう大人達、安っぽい好奇心優先の大人達、さまざまなせせこましい現実と対比させながらも、妖精を信じた少女達は、信じる心を持ったまま大人へと変化していく。大人になることが夢や奇跡(安っぽい言葉だけど)を捨てることではないということを語っている。