(監督:ロバートロドリゲスなんだけど)
(呪われた町+遊星からの物体X+ヒドゥン)/1000
ケビン・ウィリアムソンと俺ってつくづく相性が悪いんだな。なんでだ?
別にけなそうと思って映画を観にいってるわけじゃないのにね。見に行ったからには楽しみたいし、肌にあわなさそうな映画ははじめからパスするようにしてるのだ。
でもね。ダメ。
確かにスピード感はある。が、それでかばいきれないくらいに凡庸で、生彩がない。設定に矛盾が多すぎるのだ。嘘は嘘としてもっときれいにつかなきゃ。ネタを引用するのは全然オッケーだが、元ネタそのまんま無邪気に出されても新鮮味もなんもなくうまくないっショ。
ネタをパクったというよりは、SFのポピュラーかつ古典的なモチーフなのである。だから過去の同業他社的作品には事欠かないのである。ピンキリでね。
だから別に黙ってりゃいいものを、なまじ過去の作品群に触れようとするからアラになる。「ボディスナッチャー」を引用するのはいいよ。古典だし。でもSFオタク的会話をやりたいなら、モノクロ版とリメイク版の違いなどにまで言及したほうが、いいだろう。人体乗っ取りならば、「物体X」について触れないのもおかしい(キャラ的には「エイリアン」のチェストバスターだけど)。ハインラインを引用するならば、ハルクレメント「20億の針」も当然出てくるだろうし、そうなると「ヒドゥン」について触れずにはいられないだろう。もちろん、そこまでやるとのりすぎではあるけれど。
ようするにサジ加減ということなんだが、そのバランスが俺としては“甘いぜ”と思えたのだ。
これは重箱のすみになってしまうかもしれないが、ラストのボスがあれだけ巨大化するのも納得いかない。寄生生命体のくせにいつのまにか独立体として存在しているのが、設定として説明されていないのが荒っぽいのだ。
寄生なのか擬態なのかがはっきりさせないと、話の構造自体が破綻してしまうのではないか。みた目優先主義としても、勢いで押し切っちゃえと割り切るにはあまりにも雑すぎると思う。
寄生されてもボスを倒したら、助かるのいうのはいいとして、先生達はみんな行方不明のまま、つまり死亡したということは(エンディングで先生方が登場しているが、本編で行方不明になったとナレーションが入るのだから、その設定を優先するべきだろう)、人によっては寄生生物が除去されないということだよな。その差はなんなのかを描かないと、ハッピーエンドにはならない。
この手の話で重要なポイントとなる設定は、寄生されたことによって思考まで乗っ取られるのかということ。この作品ではそのへんが曖昧。このエクスキューズが決まっていると、“悩みも悲しみもなく、全てが分かり合える新しい生命形態”よりも“どんなにつらくても、人間本来の苦しみや悲しみを抱いたまま生きていくことこそが大切なのだ”というテーマ(だよな?)につながっていく。もったいない。
ジャンルムービーはオレツボストライクなだけに逆に点が厳しいのだろうか。