(監督:塚本『鉄男』晋也)
とりかえばや。
硬質(内容的には粘着気質的だけど)で冷徹な印象の作品だった。役者が全員眉を落とすメイク(?)をとることで、非現実感を組み上げている。登場人物が生身の人間としてではなく、映画のパーツとして存在するモノであるかのようなそれは、感情移入の拒否を意味している。であるからこそ、観客は語られる物語を、冷静に客観的に観ることになる。そのような思い入れのなさは、ともすると観る者をスポイルする可能性を持つが、作品自体の吸引力(それは例えば物語であったり、演出であったりするわけだが)が強ければ、なまじ観る者の同化に頼った作品よりも完成された空間を作り出しうる(よくわからん文章ですね。自分でもよくわからん)。
またまた勉強不足で原作を読んでいないのだが、とりあえずこの映画については完全なオリジナルとしてみていいらしい。
話は、記憶と嘘と過去の因縁が入り組んで、かなり複雑ではある。しかしテーマ自体はシンプルで、そこで描きたかったことは、『人は環境によって聖人にも鬼にもなりうる』というものだ。
例えば、雪雄(もっくん1号)は志高い名医であるが、井戸に閉じこめられることによって、獣になり、最後には貧民街を破壊する狂気に至る。対する捨吉(もっくん2号)は貧民街で野蛮に育ったが、と入れ替わり生活していくうちに、人を傷つける痛みを知る(もちろん聖人君子になったというわけではないのだが)。花嫁りん(りょう)はもっと確信犯で、自分から2つの人格を環境に合わせて演じている。それはなにかを企んでというよりも生きていくための本能に近い描かれ方である。
環境が人を変える。というよりは、人には善と悪の両面を常に持ち合わせていて、ただどちらが表に出ているかの違いでしかないということだ。
裕福な屋敷生活と貧民街、ふたつの舞台。しかし、裕福な家庭はなぜか寂しげな寒色調で、対する貧民街は白茶けたイメージで、撮影されているのである。ようするにどちらも満たされていない、理想郷など存在しない、ということなのだろうか。
結局、因縁が生み出した人の業を描き出している作品なのであった。エピソード的にはいろいろあり、話の大きな流れもあるのだけれど、全体的にはすごく静かな(タナトス的)作品であった。