(監督:デビッド・フィンチャー)
野蛮にして崇高な、精神の物語。
見事にはまった。
まず圧倒されるのが、冴えまくる確信犯的映像演出。クールにしてソリッド。目の回るようなカメラワーク。メタ映画的手法もちりばめ、しかもシニカルなユーモア感覚すら全編に漂わせ、殺伐としたものになりそうな話を微妙に温かみのある寓話としてウルトラC的な着陸を実現させている(褒め殺しか?)。
主人公の自己探究のモノローグや、ひねくれた警句といった台詞がまた饒舌。よくあれだけの言葉を字幕に入れられたものだと妙なこところで感心してみたりする。
ところが、そんなわけで字幕を追いかけるのでかなり手いっぱいで、実は映像を十分に堪能しつくせなかった場面も多々あり、かなり緊張感を持って集中することを要求される映画というのもここ最近珍しい。2度観しなさいという天の啓示? もっとも面白いからそれもまたアリかもしれない。
ファイトクラブというタイトル、予告編フィルムから想像する話は、粗暴な集団の無軌道で荒々しい行き場のない力の爆発の話であった。しかし実際はそんな思考停滞的映画ではなく、高みを目指し真理に到達しようとする哲学的求道者の物語なのだった。肉体のぶつかりあいやそれに伴う痛みによってはじめて自者と他者との境界を実感していく。“自分”という存在への問いかけであり、それはすなわち“実存”である。
最終的には物質文明の破壊というテロ行為に走りはするが、それは人を傷つけようとする目的ではなく、あくまでも自己を捕らえる業を取り払い自由となることへの手段であるわけだ。
一見、殺伐とした暴力的な映像であるにもかかわらずあまり不快感がないのはその“力”が怒りによって生まれたものではないせいでもあろう。
ゆえに実際、“ファイトクラブ”でなくても成立する話ではあるのだ。例えば、これが“詩の朗読サークル”であっても話は成立する。ただ、肉体というもっとも具現的に自己を規定する器を“センサーとして用いる”=“ファイト”ことによって、より純粋化されているのだろうとは思う。
でも実はこの肉体というのが最後に裏切ることになろうとは。
カリスマの物語でもあるなと思ったのだった。捕らえどころのない強いカリスマを持ったひとりの男が、友人のために行動し、しかしその目的のために作り上げられた組織の存在が逆に男をスポイルし、自己を崩壊させてしまう話。
ところが後半話は一転して違う様相を見せ始める。思ってもみなかった展開であった。これには驚いた。多少無理はあるがしかし納得できるのだ。そんな乖離製同一性障害的とも精神分裂的ともとれる展開はあっても、自己の解放というテーマ自体は揺らぐことはない。
見た目に騙されてはいけない。傑作である。