(監督:ジャヤントCパーランジ)
愛は愛のみに従うのだ。
思ったよりよかった。というとずいぶん失礼だが、実際さほど期待していなかっただけにこういう期待外れは嬉しい。
演出、というよりもカメラワークにびっくりなのである。超広角レンズを用いて俯瞰や鳥瞰、地面すれすれの低位置からと印象的な絵を作りだす。サブリミナルすれすれ的な早いカット割り、印象的なインサート。かなりスタイリッシュだ。ダンスシーンはかっこいい至上主義で作られているから当然として、本編パートもそんな印象なのがすごい。インド映画ではダンスシーンはダンスマスターが主導権を握っていることは知っていたが、本編とダンスシーンの画面づくりにそれほど差がないというのは、撮影監督やポストプロダクションの力か?
さて、話だが。
不思議なのはヒロインの父親の仕事。どうやら地方の名士らしいが、本人は「自分の仕事は殺しだ」といってるし、実際に敵対する組織(といっても仲の悪い隣村の人)を殺すシーンばかりで、実際になんの仕事なのかは本当に不明のままなのだ。しかも殺人に対する法的なおとがめもなしで、これはようするに名士兼マフィアといったところなのか? よくわからん。ようするにこれが“カーストの力”ってやつなのだろうか。
そう。このカースト的な差別の問題は全編に絡んでいる。身分違いの恋という王道パターンにはつきものともいえるが。
差別というものは絶対になくならないと思う。2つ以上のものがあれば、そこに比較が生まれ優劣ができ、それはどうしても差別となっていくのは仕方のないことだと思う。問題はその優劣を誰が決めるのかということなのだ。
その差別がいわれなきものであってはいけない。外部からの押しつけで評価は決めてはいけないのだ。例えば持って生まれた身分などは優劣の対象などではない。なぜならそれは正しい比較がなされていないからだ。
価値基準は誰かに与えられるものではない。個人によって違って当然なものだ。だから誰しもが平等というのは幻想にすぎないが、ただひとつ平等がある。自らの価値基準を持つことがそれだ(問題はそれが世間で通用するかどうかなんだけどもね)。
ともあれ、外部からの束縛や強制を猛烈に嫌うオレとしては主人公に肩入れしても当然なのですよ。
だから前半部の妙に子どもっぽい恋のやりとりも観ていて「ヒゲ生やしたいい歳こいた大人がやるこっちゃねーだろ」的な気恥ずかしさで、観てるこっちがこそばゆいんだけれども、でも愛おしくもある。それが逆に後半の大ロマンスに展開し、するとどうしても応援したくなるというわけだ。だからラストで、二人が電車に飛び乗るシーンでじーんとくるのも当然。う〜ん、インド映画の王道だ。