(監督:光石冨士朗)
殺すときってどんな感じ? 殺すんでしょう?
富江を映画にするのって実はすごく難しいのではなかろうか。
映画自体は面白かったのだが、でもそう思う。
富江という話は実は『死なない女/増殖する女』というワンアイディアをダイレクトに描いた話であって、映画のように数時間かけて起承転結という形態での話づくりにはあてはめづらいのではなかろうか。
そもそも“死なない女”というのはそれ自体は実は怖い話ではない。富江の存在自体は実は恐怖ではないのである。対する人間が殺される、命を狙われるということはない(狙われるといえばそうなんだけれど、少なくともバカにされた等の理由がある)。ただ凶悪なほどに性悪な女の恐怖とはいえるかもしれない。そんな女に見入られてしまう怖さというのはあるかも知れないが、それは現実の女にもいえる話だ。いやマジで。
ようするに富江とはホラーではなく、愛憎心理劇に近い。キャラ的にどうしてもスプラッタ的要素がおもてに出がちなのだが、それは表面上のことで主題ではない。あくまでも心の動きや乱れこそが主題なのだと思う。
(もっとも原作では存在自体の恐怖に焦点をあわせているところもあるんだけれど)
話は実にオーソドックスに展開していく。画面づくりもそれにあわせてか、いい意味でのオーソドックス、落ち着いた正攻法的な見せかたをする。上に書いた理由により、変にビジュアルに走らないというのがこの話には似つかわしいと思うし、そういう判断は好感が持てる。
と思って観ていたら、富江天井張りつきとか富江異形メイクなんかが入ってきちゃって、ちょっと興ざめ。富江の非人間的な部分を必要以上に強調する必要はなかったのではなかろうか。あくまでも性悪な美少女という筋を通してほしかった。
それに富江の内面部分まで描こうとするもどうか。怪物としての存在の悲しみみたいな部分は果たして必要なのかどうか。富江はもっと、そんな弱さなど気にもとめないない無垢で無邪気な小悪魔であってほしかった。もっともそんな俺の富江感を強要するのもよくないな。
しかしよく考えるとなにを目的としているのかよくわからない話なのだ。富江が復活して、それに運悪く巻き込まれた人が勝手に壊れていくだけなんだからね。主人公もなにがしたいのかよくわからないまま(父親を見つけ出したいだけなのに?)富江と対決することになってしまう、強引な展開。かなり荒いね。
でも楽しめた。