(原作:「ロケットボーイズ」(ホーマー・ヒッカム・Jr著))
心ある人よ 科学を畏れよ
その力はすべてを合わせたより大きく また素晴らしい
人よその手に触れ その与えるものを受けるがよい
すべてはまさに
科学する心に宿るのだ
ひさしぶりに泣いた。うるうるなんてもんじゃない。マジ泣きである。ウェルメイドではあるが、エモーショナルではない。ごく普通の少年達のちょっと変わった青春の一ページを切り取った、ただそれだけの話。なのになんでこんなに熱い想いがこみ上げてくるのだろう。
もちろんその理由はわかっている。未知のものへの憧れ、真理の追求、すなわち「科学への想い」を純粋に描いた話だからだ。かつて(というか今もそのつもりなんだけど)科学する者であった自分をそこに見たからだ。自分のあのときの心のときめきを思い出させたのだ。
おそらく科学する者ならば絶対に同感できると思う。だよね?
とある石炭採掘のための保守的な田舎町が舞台である。特に勉強ができるわけでもスポーツができるわけでもないごく普通の少年が、些細なきっかけから科学にめざめ成長していく。その過程で経験する町の人々との人間関係や父親との葛藤などを、淡々と描きだしていく。
特に劇的な出来事が起きるわけでもない。それもそのはず、元々実話がベースになっているのだ。現実の世の中そうそうドラマチックなことは起ころうはずもない(起こることもあるが、少なくともこの話はそういう偶然をテーマにした話ではない)。
そのすごい事件が起こらない部分を補うかのように、主人公達のロケットへの想いや行動が丹念に丁寧に描かれていく。だからこそそれを観る我々は彼らを応援せずにはいられなくなるのだ。
オレがいいなぁと思ったのは主人公が科学する心を自分の中に見いだした瞬間がとても共感できるように描かれていることだ。
主人公ホーマーがスプートニクが空をよぎるのを見上げたときがそれ。夜空を流れるそのきらめきを見たときの純粋な感動、本当によくわかる。そう、往々にしてそんなシンプルな感動が、科学への道を示すものなのである。
このスプートニクのモチーフは実際、実に印象深く用いられていて、冒頭の科学への道を示すシーンは上に書いたとおり。2度目は、現実に負け炭坑夫となって地中深く降りていかなければならなくなった主人公が見上げた空に、諦めざるを得ない悲しい憧れとして登場する。地の底へ降りていく主人公と大空を行くスプートニクの対比が実に象徴的だ。
そしてスプートニクが生み出した想いは、彼らの手作りロケットになる。町の人々のそれぞれの思いをのせて、高く、高く、白い軌跡を青い空に描きながらどこまでも高く…
ともあれ、全編を通じて描かれているのは科学に対する熱い想い、夢をかなえるために頑張ることの大切さ。日々の歯車の生活に慣れてしまった自分にとっては前に進もうとする気持ちを思い出させてくれたのだった。ありがとう。
フォンブラウンのポートレートが実は… という展開があるのかと思ったが、それはあまりにもつくりものくさい発想でしたかね。