(監督:スパーク・ジョーンズ)
操縦するは我にあり。
あるひとりの才能あるしかし無名の人形遣いの悲劇。
あるいは、自分の中の同性愛に目覚めた女達がいかにして子供を授かるかのお話。
あるいは身体をのっとられた男の悲劇。
いろいろなアイディアが未整理のまま提示され、複雑に絡まりつつ、謎は謎のまま、そしてラストはとても悲しい結末を迎える。いや、哀しみは続くのだ。
奇想である。人の頭の中に入り込む。しかもテレパシー等々の精神系手段ではなく、あんなベタな方法で。一歩間違えれば大バカなアイディアを「これはそういうもの!」という強い意志(?)で言いきることで観る者に疑問を抱く余地を作らず、きっちりと最後までテンションを保ちつつ最後まで描ききている。
出てくる人が皆どこかネジがずれていてマトモそうなのに全然マトモじゃない。
社長然り、秘書然り、ヒロインもまたその例から漏れることはない。そもそも7と2分の1階なんていうフロアが存在する世界を平然として受け入れる人たち。そのこと自体がすでに変。そんな変な状況に巻き込まれていく、あるいは受け入れていく普通の男の悲しい顛末記である。
ただ、話が中盤以降、頭の中に入り込むという不思議な現象とそれを商売にする者達という話から、自分の夢(欲望)と愛(欲望)をかなえるために他人になりかわるという、似ているようで違う話に変わる。二転三転するストーリー展開は常に奇想を産み、それがラストの哀しみにつながるのではあるが、個人的には“他人の頭の中で遊ぶ”という前半のモチーフが途中で吹っ飛んでしまったのは少々勿体なかったかしら、とも思うのだった。