(監督:フレッド・ギャルソン)
踊り踊るなら〜、ちょいと…
佳品である。『山椒は小粒でピリリと辛い』といった印象の映画であった。
ある一人の言葉の話せないダンサーがいかにして、自らの言葉を得ることができたかという映画である。
まさにそれだけの話なのだ。「動きを音に変える」「天才的なダンサーが自分のダンスで音楽を作り出す」。そのワンアイデアだけ。そしてそのアイデアを“完成させる(発表する)”こと自体を、クライマックスとする一直線のストーリー。
伏線や紆余曲折、どんでん返しにつぐどんでん返しというような話を必要以上に複雑にしようとするテクニックは一切ない。だから話が単純すぎるという指摘は確かにあるのだ。しかし、単純イコール退屈ということではないのだ。
作品全体に溢れているのはダンス。オープニングのダンスバトルから一気に引き込まれる。踊り自体が持つ吸引力で、一気にヒロインに思い入れてしまう。(余程のひねくれ者でなければ)誰でもそうなるはずだ。あとは彼女がどのようにして成功(の鳥羽口)に立つことができたかを一緒になって見守って行くだけだ。これはそういう映画である。
彼女の持つハンディキャップは確かに深刻なものであり、とりまく状況は厳しい。しかしこの映画は、『障害を乗り越えていった克服の映画』ではない。ハンディキャップを主眼として描いた映画ではない。あくまでも一人の表現者が自分の表現を得るための苦悩、努力、喜び。これが描きたかったことなのだ。それはハンディキャップがあるとかないとかそういう次元のものではない。“表現すること”を求める全ての者が通るメルクマールであるからだ。