(監督:ウィリアム・フリーどきんちゃん)
グリンピースはそんなに美味しいとは思えない
かつて(初回公開は観てないので)TVで観たときは心底怖かった記憶がある。子供だったからというのもあるだろうが、それこそ夜も眠れなくなるくらいにビビリまくった。
エクソシストが他のホラーオカルト映画と大きく違うところは、威かしや血みどろや痛みに頼らないところだと思う。単純にいえば雰囲気で見せる恐怖ということだ。それはともすれば地味になってしまうのだが、じんわりヒタヒタと迫りくる真綿で絞めるような恐怖であり、これが後から効いてくるのである。
で、これがファーストインパクトとなって、“スプラッタなどのビックリ箱型ホラーは安直”と思ってしまうオレの怖い映画の基準を作ったのだなと今更ながらに思うのであった。
さてそんなエクソシストであるが、今観るとあまり怖くないんだよね。普通、恐怖映画を観終わったときって夜トイレに行けなくなるとか、大なり小なりそれ相応の効果があるのだけれど、今回はまったくなかった。威かし型の仕掛けなかったというのはそのとおりなのだけれど、もともとそういう怖さは後に残らないでしょ。尾を引く恐怖とはもっと違うところからくる感覚、逃げ場のないことからくる切迫感から受ける感情ではなかろうか。具体的には“神出鬼没な敵(幽霊や悪魔やサイコキラー)がどこまでも追ってきて安全圏がない”ことだと思う。
ところが、基本的にリーガンのまわりだけが恐怖の空間であって、少なくとも部屋を出てしまえばそこは通常の世界なのである。本当は母親のまわりに表れる悪霊の影が空間が限定されているわけではないということを暗示してはいるのだけれど、実害がないので問題外なわけだ。悪魔払いのふたりは部屋の前で平然と(?)休んでいたりもするわけで、そういう細かいシークエンスが恐怖空間の限定をしているように思う。もちろんこれは非キリスト教のオレだから感じるもので実は猛烈に怖いのかもしれないのだけれど。
映像的にはドキュメンタリータッチで、悪霊の正体や、その真偽についてはほとんど語られることはない。あくまでも『なにが起こり、どう収束したか』のみを時系列的に淡々と描いており、エモーショナルな要素は極力排除されている。またBGMもあの超有名なテーマ以外はまったくなく、だから映画のトーンは実に静かなのである。
だからラストで“実は悪霊は消え去ってはいないよ”という暗示は、それまでの客観性とは違う普通の恐怖映画としてのオチのつけかたになってしまい、少々あざとい気がした。
とはいうもののやはりつまらない映画ではないし、現在の恐怖映画のエポックメーキング的存在であることはいうまでもないだろう。