(監督:ジェームズ・マンゴールド)
骨ナシ少女、現る。
静かで透明感のある、少女達のドラマ。
まず印象的だったのは、冒頭でのタクシードライバーの科白。
「慣れるなよ」
主人公スザンナにとって強制的に入院させられた病院は、入ってしまえばそこがシェルターになる。なぜならそこにいる者達は外側からみれば心に病を抱えている者たちだが、しかし自分の存在を拒否しない者たちであるからだ。そこは居心地が良く、しかし安住するに慣れてしまえば、モラトリアムから抜け出せなくなってしまう。
“慣れるな”とは、つまりそういうことなのだ。
もちろんそこにいる彼女達にとって、今そのときにおいては(逃げ場としての、あるいは許しとしての)病院が必要であったわけだが、そこに安住することで、今度は逆に本来送り得るべき人生からスポイルされてしまう危険性を内包している。
そこにいることは確かに楽である。自分の存在を認めてくれる、存在を許してくれる場所ではあるが、それはあくまでも一時だけの心地よいベッドでしかなく、いつまでも寝続けることはできない。すべきではない。いずれは現実の社会との折り合いをつけ、自分を見出していかなければならないのだ。
しかし、そのための通過儀礼が“ヒトの死”という“リアル(現実感)”であったというのは、オトナになるということは“喪失”であるということの象徴なのだろう。
あるいは。
“異常”であることと“正常”であることの違いについて考える。本当はその境界は非常に曖昧で、本当は違いなどないのではないか。ヒトは本当に微妙で些細な違いを殊更に強調し、マスの意に沿わないものを排除しようとする。それは自覚なき悪意である。
だからそれ故に正常であること自体が、実はなにかに縛られ、本音を隠し、自然に生きていないということなのかもしれない。とすれば異常とは自分の心に正直に生きることが出きる者を示す言葉なのかもしれない。
ともあれ。 いまでもまだ迷い続けているオレにとって、かなり身につまされ、また考えるところが多く、しかし反面、ポジティブなエネルギーを得ることができた映画であった。