(監督:ミミ・レダー)
情けは人のためならず。
作品の持つトーンがシリアスのようでコメディのような実に奇妙な印象が残る。
登場人物、全員がなにかしら心に傷を抱えていて寂しくて、誰かに自分を受け入れてもらおうと思っていながら、しかしそれは自分勝手な願いであることも承知している。なんともどかしいのだろう。しかしそれが現実だ。
結局、いつか誰かに救われることを望んでいるだけではダメなのだ。自分から勇気を出して一歩を踏み出すことでしか救いは訪れない。それはわかってはいてもしかし勇気を出すことはできない。
それでも勇気をもって、というのがこの話のはずだ。しかしそれがあの結末ではあまりにも救われない。
話としてはかなりミニマムで、少年のアイディアがどうこうというより、その母親と教師のもどかしい恋模様が軸となって語られる。不器用な(それはそれなりのコンプレックスがあるためだが)大人達が理解し合い結ばれるに至るまでを描く。ということは、話のフォーマットは実はラブコメのそれなのである。にもかかわらず“先に遅れ”というキーワードがあまりにでもカルト的である種の危うさをもっているがために全体から浮いてしまい、振り回され、それによって物語は本来あるべき形をとることができなくなっている。だからラストの悲劇はラブコメには相応しくなく唐突なものに感じるのである。
しかしこの少年の人生については、ストーリーの流れからすると明らかに浮いているのだが、しかし宗教物語としてみると実に必然なのである。つまり救世主は殉教によって神化することができるからだ。とするならば、彼の死は当然の着地点である。彼はあるひとつの素晴らしい(?)教義“ペイイットフォワード”を説く神になったのだ。
もっともそのリアリズムのために死を描いたのであるならば、あまりにも話を作者の都合で振り回している(観る側に涙と共感を強制している)ような気がしてならない。そして、宗教の話にリアリティを与えるために恋物語が挿入されたのであるならば、それはそれでご都合主義だ。