(監督/脚本/製作:M・ナイト・シャマラン、ビュ〜ティ〜)
トリだったりヒコーキだったり…
(以下、作品の根本的な部分に触れるので未見の人は気をつけて!)
オレ? もちろん拍手喝采にきまっている。
本来パロディでしか成立し得ないテーマを真っ向正面から描くとこうなる。それをバカバカしいと一笑するのか、よくぞここまでやってくれたと絶賛するのかは、人それぞれ。おそらく作品のタイプを宣伝文句での“恐怖”や“罠”や“謎”をそのまま鵜呑みにした観客は予想外の、一歩間違えれば卓袱台をひっくり返さなければならないようなネタに対して拒否反応を持つ者も多いような気がする。それはしかたがないことかもしれないが、もっと柔軟に本質をみればこの作品がひとつのそれはとてもリアルな“真理”を語っていることに気づくはずだ(そうか?)。
コミックスに描かれるヒーローストーリーが英雄神話の再構成であるという設定から演繹される“特殊な能力を持つ者の探索”の物語である。そしてヒーローがヒーローであることを自覚したその瞬間、それは新たな伝説の誕生となり、それ自体がいつかは英雄譚として語られることになるのだろうという帰納的予感を漂わせる結末。
どんなに俗的でくだらないことにみえてもそこにある“真実”までがくだらないものではないということを理解できない者には、この話の真実は見えないだろう。
ひとりの男が己の運命を知り、受け入れるという自己の確立の物語である。しかしそれだけに終わらず、その存在から派生し得るであろう様々な“存在”という可能性、アンチテーゼもまた用意されているという幾重にも張り巡らされたテーマ性。一見荒唐無稽だが、その作品の中では一貫性を持って結びついており、だから物語の結末は必然の結果である。にもかかわらず、そこまで見据えて語り尽くすとは思わなかったので「なるほど、そういうことか」とハタと手を打つオレであった。
シャマランの作風は、静かでリアルで重々しく派手さがない。全体にアンダーなトーンの空気が漂っていて、それゆえ観ている者には「主人公は最後に死んでしまうのではないか」という気持ちがなかなか払拭できない。それはこの設定のもうひとつの方向性として「全てはおかしなマンガコレクターの妄想で、それに踊らされた主人公は最悪な事態を迎える」という着地点が十分に予想されるせいだ。
この作風自体はオレは嫌いではないのだが、ラストのエピソードに至る雰囲気づくりという点において、今回は少々損をしているかも知れないとも思う。
ともあれ「またまたよくぞやってくれました」といいたい。
とにかくさ! とりあえずラストに、ドンデン返しとまではいかないまでもちょっとっした謎の解明があるにはある。がそれは作品全体にかかる謎ではなく、あくまでも物語のおさまりのいい結末でしかない。
それは別にいいのだ。
問題は、宣伝で『謎』や『恐怖』をあまりにも強調し過ぎている点。なにしろこの作品には恐怖も謎もないのだから。煎じ詰めれば普通とは異なった体質の男たちのアイデンティティの物語でしかないのだ。
もうそういうステレオタイプな宣伝はかえって逆効果なんじゃないのかねぇ。