(監督:ラッセ・ハルストレム)
チョッコとLOVE
ファンタジーである。それも比喩的な意味ではなく、王道のファンタジー。一見同じようでも、その実、差は大きいのだ。よくわからない? つまり、具体的にいうと「偶然であれ必然であれその物語の中では起こり得ないはずの奇跡」がファンタジックであり「認知されているいないにかかわらず物語の中ではその奇跡はあると設定されている」のがファンタジー。え? さらによくわからないですか、そうですか。
オレは、もっとハートウォーミングな、そう、チョコが凍てついた人の心を甘く溶き解していく人情喜劇的なドラマなんじゃないかと勝手に想像していたのだけれどね。実際はそうではなくて、“チョコ”が人を変えていくのは確かにそのとおりなのだが、オレは想像していたのはもっと『偶然という名の運命』や『人々の変わろうとするちょっとした努力』がきっかけとなって起こる必然的なそれだったのだ。で、確かにそうじゃないわけではないがそれ以上に、もっと人為的というか… ようするに本当に魔法の力であったわけです。
そう。魔法のチョコ。一口食べれば魔法がかかる。まったくそういう話なのだ。その魔法のチョコを作るのは当然、魔女。ね、ファンタジーでしょう(いや、魔女=ファンタジーということでもないんだけれど)。
もうひとつ「あれ?」と思ったのは泣きの要素がないこと。“ちょっと哀しくて、でも希望ある未来は決してなくならないのだ”的ハートウォーミングストーリーにこちらも爆涙覚悟、あるいは期待していたのだが、実際のお話はむしろもっと冷めていて、登場する人々の可愛い滑稽さや愚かさや哀しさ、そしてもちろん優しさを少しだけ距離をとりながら描き出している。だからオレとしては「みんな頑張ってるなぁ」と応援しこそすれ、泣くことなどはなかったのである。
この話、ようするにふらりとやってきた魔女が、いかにして安住の地を手に入れたかという物語である。いくつかの出来事をのりこえて人々とともに変わりそして家を得るという物語。それは優しく、幸せな結末である。
しかし、その裏には、己の内なる声の、そして血の持つ宿命のなせる『漂泊』という名の可能性、あるいは未来を捨てる選択をした「喪失の物語」でもあるのだ。ラスト、母親のパワーの源である母の形見、そして娘のパワーであるカンガルーを自ら遠くへ解き放つこと、すなわち、“力”=“無限の可能性”を捨てる。これがその結末を象徴している。
これは観る者によっては実に辛い話だと受け取る者もいるはずだ。
「自分はここまででいい。これ以上は、いい。愛する人を悲しませてまで高みを目指すことはもうやめよう」そういう悲しみである。
だからそういう意味において、この映画はカップルで観るべきものではないとオレは思うのだった。