(監督:市川準)
期待してはいけない。引きずってはいけない… そんなこと、できるわけない。
なにはなくともとりあえず、これは田中麗奈のためにある映画である。
というのが一番強い感想で、それはきっと正しいのだと思う。
ストーリーもありそでなさそな淡々とした内容で、ようするに『ストーリーを語るのではなく、日常を描く』という監督市川準テイストそのままということだ。
市川準の作品の特長はいかにもつくられたストーリーで観客を引っ張るようなタイプではないため、結果、役者達がいかに『日常』を“日常”として表現するかというのが、作品の成否に直結している。だからこそ役者の力量が問われ、逆にいえば役者が前面に出る。
で、この映画においては全編にわたり田中麗奈扮する20代前半の女性の1年間を、彼女の一人称形式で描いていくわけで、これはもうつまり、田中麗奈がどれだけ観客を惹きつけることができたかがイコール作品の良し悪しであると断言してかまわないだろう(もちろんそれは演出サイドのフォローがあって成立することは前提だが)。
そしてそのたくらみは成功している。主人公の心の動きには説得力があり、観ていて、(それは実際、あまり良き選択をしているわけではないのだけれど)、見終わって、そこに彼女の一歩成長した姿を見出し、前向きななにかを感じ得ることができた。
というわけで映画全体からみると、けして悪くはないのだが、しかしそこに描かれる男と女のありかたには首を傾げるところしきりであるのもまた事実である。
いや実際、「そんなんでいいの? あまりにも短絡的なんじゃないの?」と思うわけだ。1年契約の恋愛など無理があるに決まってるし(常識や良識ということ以上に、情が入って最後にはお互いが傷つくのが目に見えているから)、だからその選択をしたことで二人がどんどん親密になっていくのは観ていて痛々しすぎる。
そして結局、ふたりは別れることになる。
しかしそこでもうひとつのドンデン返しがあるとは。
あの結末はどう解釈すればいいのでしょうか。
「1年間のうちに遠距離恋愛の女性とはそういうことになっていて、彼はそれを知らなかった」のか。しかし帰国した女性の科白と状況からするとそうでもないようである。
はたまた、
「男ははじめから遠距離恋愛の女性とは切れていたが、未だ未練を持っていて、それでも遊んだ」ということなのか。それってストーカーっつうことか?
と、いろいろと解釈のしかたはあるのだが、少なくともどのパターンでも主人公はハッピーにはなれないことだけは事実だ。
はじめからアンハッピーな結末がわかっている話ってのはつらいんだよ。