CHART-DATE : (2001/10)
作品
陰陽師でおじゃる
… 陰陽師

(監督:滝田洋二郎人々)


お話

 行くか。行こう。そういうことになった。


お話

 すみません、侮ってました。

 思っていたよりも、いや思っていた以上に、面白く仕上がっていた。もっと一般向けに、ありがち伝奇アクション風な仕上がりになっているかと思ったのだが、もっと思索的(哲学的?)だった。しかも、充分にエンタテイメントもしている。

 オープニング。いきなり大上段に振りかぶったイントロナレーションでちょっとひいてしまったのだが、宵闇の都の情景から、どんどんひきこまれていく。
 魑魅魍魎が跋扈する、そしてそれが恐ろしいモノ、異なるモノではあっても、いてはならぬモノではなく、あるモノである。という感覚はいい。ようするに八百万的感覚。善対悪というような西洋的タームではけして語ることのできない、有象無象が存在する、存在していてもよい世界観の物語になっている。

 わかってるな、と思ったのは、清明が正義の味方ではないということ。安倍清明という存在をもっとスーパーヒーローとして勧善懲悪の分かりやすい活劇にすることもできたはず。むしろそのほうが2時間という枠におさめるには楽でもあろう。しかし、清明は、超人ではなく(ある意味そうなんだけど)、また敵役道尊もまた悪の超人ではない。善と悪は相対的であり、真理の追究のための手法の差でしかない。
 ここで語られてるのは、一見、都を守るヒーローの物語のようであるが、実は、高みを目指して模索する者のコンフリクトの話である。
 まあ、ストーリーの都合上、というよりは、清明が都側につくかをドラマチックにするために、雅博との共生関係をはっきりさせすぎたのはちょっとやりすぎかとも思ったが、それは許せる範囲だろう。

 私的な話だが、昔、というか今でも情報の伝達、コミュニケーションということについて考えている。その手段は、文字であったり、言葉であったり、仕草であったり、音楽であったり、舞であったり、様々な形になって表現されるわけだが、これをコトバと名付けてみる。すると、例えば、美しい詩や、美しい踊り、美しい絵画はどれも同じく「美しい」というコトバを意味しているのだ。人が美しい表現に出会ったときに魅了されるのは「美しい」というコトバが人を惹きつけているということだ。

 特定の法則は特定の結果を出す。例えば、「米を水に浸せ」「火にかけよ」という法則で『飯』という結果を産む。そういうようなことだ。法則。あるいはコマンドといったほうがわかりやすいが、これはつまり方程式である。  式。  つまり式とはそういうものである。あるコマンドをきちんと並べることによって結果を出す。そしてそれらコマンドは、もちろん様々なコトバによって表現されているということはいうまでもない。
「式」という言葉はダテじゃない。そこにはそれなりの意味があってつけられているのだ。だから式神とは便利なお助けキャラなどではなく、コトバという呪文が呼び出す特定の結果である。

 と、こんなふうにオレは考えているのだが、特に文献資料にあたっているわけでもないのであっているのかも間違っているのかも全然わからない。そして実のところその真相がどうであっても全然構わない。オレはこう思ったんだよ、ということがいいたかっただけなのだから。

 この映画を観ているときに、特に清明こと野村萬斎の舞を観ているときにこのことが頭に思い出されてしかたがなかったということが、いいたかったのだ。

 けして手放しで褒めるわけではないが、もう一回観てみたいなと思いつつ劇場を出たことだけは付け加えておきたい。


お話
  1.  冒頭で陰陽寮の日常がでてきたときに、逆に組織としての陰陽師の物語もみてみたいな、と思ったのでした。
  2.  着物の質感がすごい。いい生地使ってんだろうな。コスプレ班としては即反応である。
  3.  それにしても、全編に渡り野村萬斎のたたずまいはすごい存在感である。走っても着くずれないし、ちょっとした動きでも着物の端々にまで神経が届いているような感覚。その動き全てがケレン。和服を着慣れているからだろうが、そのことがこれほどまでにカッチョイイとは。
  4.  脇役陣も味が出てる。伊藤の単純ぶり。真田の悪ノリぶり。キョンキョンの艶容ぶり。どれもいい感じ。ただし密虫の今井だけがモーレツに浮いていたように感じたのはオレだけ?
  5.  キョンキョンとの絡みがモーレツにエロチック。特にうなじから息を吹き込むシーンなんかもうエロエロっすよ!

お話
★★★★

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