CHART-DATE : (2003/02)
作品
寿宴
… 呪怨

(監督/脚本:清水崇)


お話

 白黒白黒


お話

 基本的にはビデオと同じ設定で、同じような展開。続編というよりは、バージョンアップ劇場版といったところ。
 で、映画としてどんなんかというと、確かに“怖いこと”の表現ということに関してはここ最近のホラーにおいてはピカイチであった。しかし、「これは怖いな」と客観的に思うのだが、それが直接に「怖い!」という感覚に結びつかないのである。つまり、怖さを考えているのだな、感じているのではなく。これじゃあ、ホラーを観にいった意味ないじゃん!
 なんでだろう、と思うに、監督清水崇の恐怖表現の方法論は、飛び出し系の脅かしではなく、“たたずむ異質”の存在を直接的に表現することによるものである。観客は、それに一対一で対峙し、生身の自分が侵されるかもしれないという危機を感じることによって恐怖を受ける。逆説的に云うと個人として対峙しないとその恐怖効果は半減する可能性がある。と、まわりくどく表現してみたが、ようするに劇場のような大勢で観るシチュエーションだと、意外と醒めて観ることができちゃうのね、ということなのだ。
 もっとも、そんなこと考えているのはオレだけみたいらしく、まわりの皆さんは「怖いっ! 怖いっ!」を連発連呼しておりましたが。

 話もビデオのとおり、怪異の空間にまきこまれる人たちの逃げようのない顛末をただ描くだけで、ストーリーテリングはないといってよい。物語としての起承転結が弱い。実はこれこそが監督清水の真骨頂なのだ。ヘンにいじくらず、コアな怪異をダイレクトに描く心霊実話的な話。理由(あるいはエクスキューズ)がない。だからこそ怖い。
 しかし、ラスト近くの女子高生のエピソードについてだけは、いかにもホラー映画ですというような因果応報的な展開となっており、そのつくりものめいた(ってつくりものなんだけど)部分に、あれ、これは違うんじゃないのと違和感を感じてしまった。

 と、そんな一歩退いた観かたをしてしまったせいで、近来出色の出来のホラーを心から楽しんだかというと、そうでもないのだが、でも、怖い映画を観たぞという実感は感じてはいるのですよ。そんなアンビバレンツな自分が一番怖いかも。


お話
  1.  観終わっての観客の「つまりあの女のヒトが原因だったのね」みたいなおしゃべりが小耳に入った。つまり、恐怖をもたらす原因は誰か(あるいは何か)、排除すべき対象を無意識に求めてしまっているのね。まあ、ホラーの基本設定として、なにが呪いの原因かってのを探してしまうのは、しかたのないことかもしれないけれど、この映画に関しては、そういうことではなく、『理由もなく呪われてしまう空間がこの世の中にはあるのよ。そういう縁を結んでしまうことは誰にてもあり得るのよ』ということを、生のままドンと提示したものなんだよね。でも、それはなかなかにわかりにくいものなのかなぁ、とそんなことも考えてしまった。
  2.  奥菜恵ってSかと思ったら、意外や意外、いじめられ表情が似合うのね。いやぁ、眼福。

お話
★★★ ☆☆

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