(監督:ジャック・ペラン)
ギターと拳銃だけが俺の相棒。何処とも知れぬ街から街へ、流れ流れて悪玉退治。ダイナマイトがよぉ〜
ただひたすらに飛ぶ鳥たちを追う。それだけの映画。その絵だけが語り出す彼らの物語。いや“物語”ではない。これは映像詩である。
詩。それはストーリーを廃し、カメラに写るそれだけを真実として、淡々とありのままにその姿を映し出すこと。そこには鳥達に対しての甘い感情移入はない。それを許さない冷徹な視線がある。
自然の有り様をそのまま描く。例えば捕食される姿。沼に足をとられ死にゆく姿。銃で撃ち落とされる姿。それは鳥にとっていつでも起こりうる運命としてあり、撮影者は自然の姿に干渉することはない。「助けるべき」と語ることは安直である。おそらく撮影に際して長く成長を見守ってきたクルー達にとっては、手を出さないことは断腸の思いだったはずだ。そのような強い信念があってこその映像詩であり、だからこそそこに神が宿る。
制作者は実に誠実である。自然をありのままとして映し出すとして、そこに露悪的な趣味は持ち込まなかった。死にゆく鳥達を描くときも、その瞬間までをとらえることはない。ギリギリで踏みとどまり、そういうことがあるということを思い描かせるだけである。それが奥ゆかしい。
ところで、この映画が、“ドキュメンタリー映画”とも少々趣が違う印象を持つ理由のひとつは、ナレーションが極力省略されていることであろう。普通のドキュメンタリーなら、もっと鳥や渡りに対しての情報量を増やすであろう。しかし、この映画はあくまでも、“絵”で表現することに徹している。あえて云うなら必要最小限以下である。その寡黙性もまた詩としての存在を強く訴えかけてきているといえよう。
観進んでいくうちに思ったことは、このような事実だけを描く作品がどのように幕を引くのであろうかということである。単なる映像詩として、そのまま暗転してしまうのだろうかと。ところが、最後のほうになり、冒頭に登場したカモ達が再び帰ってくるのである。渡り鳥としては当然の行動ではある。しかし、同じ鳥がその長い旅路の果てにようやく帰ってくる姿を描くということは、実は『因と果』、換言すると『時間の経過』を示している。それは、“ものがたり”を創り出すことでもある。その時点で、この作品は、詩から映画へと昇華したのだ。