(脚本/監督/製作総指揮:ウォシャウスキー兄弟)
スミスの異常な愛情。
予想していたより、わかりやすかった。言われるほど難解ではない。多分、それは、事前の知識として、生命の生存適応とか変異誤差とか、コンピュータのバグとか、そういった諸々の情報を知っていたかどうかの差になるのだと思う。なんて書くと自分がいかにも物知りっぽくてイヤらしい感じだけど、でも知識が追いついてないと判らないつくりなのは確かな事実でしょう。
概ね、いくつかのフェイズが想定される。
ネオの選択と運命と覚悟の問題を主眼とした、心のあり方の物語。いかにも意味深な科白の羅列により、思わせぶりな世界観を構成している。主人公ネオとともに「何故に自分はあるのか。そのレゾンテートルを問う。」というみかたがひとつ目。
ネオの存在、スミスの存在、バグを常に要することによる生存の弾力性を持たせるという生物学的コンピュータ論。そしてスミスとネオが混じり合うことによりバグがより強固なプログラムへと変化していくSF的物語。これがふたつ目の解釈。(オレにはこれが一番しっくりきたんだけど。)スミスがキラーエージェントから独立プログラムと変化したために、実はネオと対になっているということ。そこに気づくとわかりやすいと思う。スミスはネオを執拗に追い回す理由はそこにある。
アクションを面白く見せるための方便。それを行っちゃおしまいだが、実はこれがこの映画の正しい解釈だろう。
哲学的でSF的なガジェットを振りまきながら、基本的にはガンガンのアクションでストーリーを進めていく。特に高速道路のアクションはクールかつホット。正直どうやって撮影しているのか、VFXなのか、はたまたコマ落としなのか、わからん。いや、そんなことはどうでもいいのだ。カッコよさ至上主義っていう感じで、爽快である。
アクションを魅せる基本としては、スピードとスロー、緩急の妙こそが全てであり、ウォシャウスキー兄弟はそれを体得してるね。考えるのではなく感じてるよ。いやもちろん考えてはいるんだけれど、頭で考えたっきり、反映されていないのではなく、感覚として表現しきれている。
正直、スミスがらみのアクションなど、やりすぎなところもあるんだけれど、それでも過剰供給によるバカバカしさが突き抜けた快感へと昇華している。と、いったいなにを力説しているのか自分でも意味不明なんだけど、要するに面白かったということ。
ストーリー展開の、アクション演出の、哲学的設定の、多少のアラはあるのは承知の上で、次回最終章に続く2作目としては、上手くできていると思った。