(監督:堤 幸彦)
カ・シャ
せつない恋愛ストーリー。でも、だからといってエモーショナルな感想はないなぁ。
結局、二人の恋に感情移入などせず、割と客観的な観かたをしてしまったせいだろうか。別に映画の出来云々ではなくてね。どこが悪いというわけではないんだが。その理由もはっきりとはわからない。堤演出が感情移入を拒んだのか?
ストーリーとしては、「彼女は生きているのか?」という謎をエネルギーとして動いていく。しかし、あのような展開ではどうみたって結果は明らか。もっともミステリーやサスペンスというジャンルとして作られた映画ではないので、それはいいのだ。NYでのカメラのシークエンスはだからその結果に向けてのわかりやすい伏線だしね。で、結局予想どおりのオチだったし、その理由も想像どおり。だからその答えに対する驚きやそれに伴う悲しみは感じない。我ながら損な観かたをしてしまったかなぁという気はする。
とは云うものの、映画としてつまらなかったわけではない。実際かなり楽しんで観ることが出来た。二人の恋模様よりも、むしろ、才能を努力で身につける主人公と、先天的な才能を持つ恋人との葛藤や、天才を超えることのできない苦悩といった部分にビビッドに反応してしまったためだ。かなり身につまされたのだなぁ。この映画が描き出しているのは、『秀才は天才には敵わない』のだという事実であり、実はとても冷酷な物語なのである。オレ自身が秀才であると自惚れるつもりは毛頭ないが、天才(あるいは、勝ち組、ラッキー組と云ってもいいが)に対する嫉妬心はあるわけで、しかもその嫉妬の無意味さもわかっているわけで、だから観ていて主人公の境遇には「つらいよなぁ」と共感してしまう。
ラストシーンで、主人公が“静流”を名乗ることを決心したシーンで、オレは、自分を消して世間を偽って、それでいいのか? と思ったのだ。そこまで自分をおとしめる必要はないのではないか、とね。もちろん、それを自己の秘密として偽って生きていくということではないのは、冒頭のシークエンスからわかるのだが、そしてそれはきっかけ/チャンスにすぎず、要はその後に自分としての結果を出せばいいとはわかっているのだが、なんとなく“便乗”という言葉が頭をよぎってなんかイヤだった。
しかし、時間がたつうちに、別の解釈もできると云うことに気づいた。つまり、エージェントが見せた写真はまぎれもなく主人公が撮った写真である。エージェントはしずるではなく主人公のほうを選んでいた。だからこそ主人公は“静流”として、決心したのではなかろうか。
どちらの解釈が正しいのかはわからないが、オレ的には後者のほうが美しいよなと思った。そして観終わったときになぜそこに気づかなかったかと、自分の非ピュアさをちょっとだけ恥じた。