(監督/脚本:清水 崇)
タイムト〜ンネル、ジュオン、ジュオン、ジュオ〜ン!
「呪怨」という恐怖映画の恐怖映画たる所以は、恐怖の原因(つまり霊だが)が、これでもかというぐらいに出し惜しみなく迫ってくるところにあるのは衆目の認めるところだと思うが、付け加えるに、霊への対処法がないというところにも恐怖素があると考えている。避けようのない災厄。そこに絶望と恐怖があるのだ。さて、では“避けようのない”とはどういうことかというと、原因が特定されないということである。第1の定義と矛盾するようだが、「呪怨」という映画の核となっているのは、原因=対象が、特定=固有されないというところにあるのだ。判りやすくいうと、霊は現象でありキャラクターではない。ただそこに「存在がある」。それは特定固有の対象ではなく、特定固有の現象であるということだ。
繰り返しになるが、不条理で不幸な事故。それが恐怖の本質である。故に、それを際立たせるための手法として、霊はあくまでも現象であるということが重要なのであった。ということは、今回、トシオくんやか椰子という個性を持った“霊”としてキャラが確立してしまったことは「呪怨」にとっては失敗なのであると自分は思っている。
しかし反面、一般的なホラー映画としては、恐怖対象が特定されるほうがわかりやすいのも事実で、実際、幽霊映画などは、基本的に霊をキャラとして明確にすることで、誰から逃げなければならないのか/誰から逃げることができないのかが、クリアになり、より楽しめるという方法論はスタンダードであることは重々承知している。が、それは呪怨的ではない、とオレは思うし、そういう視点において、この映画はグレードダウンしていっていると思うのであった。
ま、怖いことは怖いんだけどね。