CHART-DATE : (2004/03)
イヌの村
(監督/脚本:ラース・フォン・トリアー)
審判の日
ものごっつい作為的な物語である。『これは劇である』ということを前面に押し出すことで生み出される“抽象的具象”あるいは“形而上的形而下”。一言で云えば「寓意性」を増感している。では、なんの寓意かというとそれは「人の愚かさ」であり「狭了さ」。付け加えるならば「男の暴力性と女の暴力性」である。
次々と破綻していく村の規律。そこにあるのは、愚かな田舎者のコミュニティの維持。観ていて実につらいのは主人公に肩入れしているせいでもあるが、反面、主人公は決して救われないだろう、なにをやろうと悪い方向にしかならないだろう、という堕ちていく姿を予見し醒めて観ている自分を感じてもいる。それは自己の中にある悪意である。
作品内の悪意。作者の悪意。観客の悪意。世界は悪意に満ちている。
オレとしての実はこの話に対する解釈は『“神が神であることの自覚への道”の物語』であるなと思った。マフィアはすなわち力持つ者の象徴。すなわち神の比喩であり、村人達は虚勢する人間の比喩である。愚かな人間達に神は慈悲の心をどこまで持ち得るか。許すことは果たして神として本来在るべき姿であるのか。を問う物語である。
ストーリーの結末としては「神は神たるべし」「荒ぶる神たるべし」という結論に達する。因果応報的思想ではあるが、許すことを前提とした神を是とする宗教的感覚としては、受け入れられるものだろうか。特にこの映画で裁かれているのは『悪者=悪』ではなく『愚=愚衆=悪』であり、実はそれは我々全てを指し示している。東洋的な神の位置づけとしては誠にスムースに納得かつ受け入れることのできる内容ではある(少なくともオレ的には)。しかし、善悪をジャッジすることを委ねてしまっている宗教を信仰している者にとっては、この映画の表現をどのように受け止めるのかどうかが気になるところである。
★★★★ ☆