Monologe |
物欲自慢あるいは自分的カメラ半史 |
そもそもカメラにはまるとは思ってもいなかった。それもレンジファインダー型カメラ。しかもセミクラシックカメラ。いったいなんでこんなことになってしまったのか…
子 どもの頃から絵が得意だったせいで、絵に比べて写真は一段、低いものととらえているふしがあった。例えば旅行先で記念の絵葉書を買うときも、“写真もの”よりは“絵もの”を選んだ。写真なんかシャッターを押せば誰にでも撮れる、技術いらずのお手軽芸術じゃないか。と、そんなふうに感じていた。今でこそ、絞りとスピードの組み合わせによるニュアンスの変化、対象を活かす構図や光線の決め方、さまざまな技術と感覚を必要とする立派なシゴトだとわかっている。しかし、当時の自分にはそこに思い至るまでの経験はなかったのだ(そう、すべてはやってみてはじめてわかるものだのだ)。
そもそも、学生がカメラを購入するだけの金はそうそう持っているわけがなく、よほどのことがない限り自分のカメラを手にすることなどない。そんな敷居の高い、しかも似非芸術(当時の印象)にはまれ、というのがそもそも無理な話だったのだ。
も ともと写真とは“手段として”から始まるのではないだろうか。手段としての写真がいつしか目的になっていくという、ありがちな道筋、たとえば、鉄道マニアが列車の写真を撮り続けているうちに、いつの間にか写真自体に夢中になる。そういった形が必ずあると思う。
実際、そのチャンスは自分にもあった。スーパーカーブームの頃の話だ。家のボロカメラを持ち出しては、週末ごとにカーディーラーまわりをしていた。ただフィルム代現像代は親がかりではやはり厳しい。ちょうどその頃、AE−1やOM−2といった新機能一眼レフが登場し、カタログを集めたりして、かなり真剣に考えてはいたのだが、やはり先立つものは金なのだった。もしその頃、財力と興味が持続していたら、そこでカメラ道に入っていただろう。しかし、現実はいろいろとあって、結局そのうちに趣味や興味も違うところにいってしまい、自然とカメラからは遠のいていったのだった。
興味がないというのは恐ろしいもので、その後高校に入り、写真部の部室に入り浸りの生活となり(部員だったわけではない)、機材などもとりあえず借りることができる状況だったにもかかわらず、不思議なことに、写真を撮ろうという気持ちにはまったくならなかった。
時 は流れて、社会人になるとお金も多少なりとも自由に使えるようになる。旅行にもよく出かけるようになり、そうなると旅先で写真を撮ったりもする。というわけで、ようやく自分のカメラを手に入れることとなった。ちょうどパノラマが出始めた頃の話だ。ギミック好きゆえ、パノラマ混在撮影が可能な機種でなければいけない。しかもコンパクトじゃなきゃだめ。という偏った(?)好みを満たしてくれる『FUJI CARDIA Travel mini op』が出たときに即買いした。旅行づいていた頃だったので、かなり活躍してくれた。ただ、その被写体は変な看板だったり、自販機だったり、はては彫刻と同じポーズ写真。“絵としての写真”に目覚めるには、さらに数年の年月を必要とした。
2 代目のカメラはAPSだった。新しモノ好きで流行もの好きで物好きな体質は伊達ではないのだ。第1世代APS、『CANON IXE-G』。APSの将来性とかコンパクト性能などは関係なかった。単に、大きなレンズカバー兼ストロボが開く意表をついたギミックに惚れてしまったからだ。確かにいろいろと楽しめるカメラだった。メカとして面白い。しかしそのギミックゆえのトラブルも多かった。
ある冬の日、西丹沢へ冬山登りへ出かけた。年に1回あるかないかの大雪の翌日だった。雪山の様子を撮ろうとカメラを構えたが、なんとシャッターがきれない。うんともすんともいわなかった。マイナス気温のせいで電池が使用不能になっていた。電池の消耗激しい上に、肝心なときに動かなくなるようでは… さすがに頭が痛くなる(というよりも、そもそもそんな限界ぎりぎりな状況を想定したカメラではないのだ)。
もっともこれはレアなエピソードである。実はそれ以上にがっくりきたことがあったのだ。写真そのものの仕上がりについてだ。もともと期待していたわけではないが、予想以上に粒子が粗いように感じたのだ。感度100のフィルムを使っていてさえ、だ。これがフィルムの性能のせいなのか、カメラ(レンズ)のせいなのかはわからない。いずれにせよ、なんとはなしの不満が自分につのっていった。
な んでその時点で、一眼レフに進まなかったのだろう。確かに自分の見たとおりのものが写せる一眼レフは、常に頭の片隅にあった。が、に自分のカメラの目的、フィールドに出てへんなものを撮るには、ごつい一眼レフではなく小回りのきくコンパクトカメラの方がよかったと思ったのだ。実際は、一眼レフも軽く小さくなってきていることは知っていたが、まあ、要するに気後れしていたんだろう。
さ て、いよいよ大変化が起こるときが来た。
たまたま年末の大掃除で父親が昔使っていたカメラを廃棄するといいだした。勿体ないのでとりあえず引き取った。早速試し撮りしてみる。出来上がってきた写真を手にしたとき、いままで自分が感じていた、“なんとなく違う感”が一気に吹き飛んだ。なんてクリアに写るんだろう。輪郭がピシリと決まり、陰影も実に美しい。そうか、これが写真なんだと、そのときはじめてわかった(ような気がした)。
そのときに使ったカメラ、Minoltina-Sは、せっかく付いているセレン式露出計は安定せず、ファインダーは曇っているどころかヒビが入っていて、ほぼ目測。そんな半壊カメラなのに、出来上がりはこれ…
それからあとは決壊した堤防のごとく一気だった。絵づくりとして写真を意識しはじめ、フィルターにはまり、そして40mmレンズだけでは物足りなくなって、レンズ交換ができるカメラを買うに至る。いままでの流れからいって、レンジファインダー、スクリューマウントを選択したのは至極当然の流れだったといえよう。これがあのライカウィルスというものなのだろうか。ひねくれものが幸い(?)し、発症自体はバルナック型ライカコピーMinolta35llになったのだが。
わずか数ヶ月のうちに、いつの間にかレンズは3本に増えており、今もまた次の獲物を物色中というていたらく。サブカメラ(のつもりだった)Rollei35SEを衝動買いしてしまったりと、暴走は未だ衰えることを知らない。
たとえ撮影に出ていなくてもカメラをカチャカチャいじっているだけでなんとなくうきうきしてくる。もう完全に戻れないところまできてしまったと実感する次第だ。
あ る日突然。気づくとその気になっていた。まさにそう表現するしかない。山登りのときもそうだったが、きっかけはほんの小さなことなのだ。その小さなきっかけで人生は大きく変わってしまう。これがカオス理論というものなのか。しかし全然後悔なんかはしていない。
そして今日もまた、カメラにレンズをうずまきこんでいる。