G式過剰



第9ステージ
『それは感傷でしかないのだけれど』

 蝉の声が聞こえる。ようやく夏がきたのだ。

 ところで、夏はいつから始まるのだろう。小さい頃は梅雨が終わると夏が到来すると思っていた。それは間違いではない。でも、それはいつからだろう。
 子供の頃は『6月が梅雨。7月は夏』。そういう季節感があったような気がする。しかし実際には、梅雨は7月半ば、ともすれば後半まで続く。自分の思いこみなのだろうか。それとも年々夏が来るのが遅くなってきているのだろうか。だとしたらこれは実に大問題だ。

 なぜなら自分にとって7月こそが『夏』だからだ。
 8月はもう『夏のおわり』でしかなく、たとえ燦々と照りつける太陽がジリジリと肌を焼こうとも、アブラゼミが鼓膜も破けよとばかりに大合唱をしていようとも、所詮それは夏の残照でしかない。
 7月のイメージが透き通った透明な光のイメージであるのに対し、8月のイメージはやや黄色みを帯びた力強いしかし重みのある光だ。そこにはなにか残り少ない寂しい感じが漂っている。軽やかでどこへでも行けそうなそんな気分がする7月こそが私にとっての夏のイメージなのだ。

 同じことが朝にもいえる。「朝、昼、夜どれが好きか」ときかれれば、「朝」と答える。朝が好き。それも早朝。本来、寝起きが悪くねていろといわれれば昼まで寝ているくせに。自分にとって朝のイメージは7月のそれに近い。

 曜日でいえば土曜日だ。休日の日曜日よりも土曜日の方が(もちろん今は土曜も休日だが、仮に違っても)好きなのだ。だから私にとって、楽しい休日とは土曜日から日曜日の午前中である。

 そんな話を知人に話したところ、
「それは予感が好きということだね」

といわれた。
 なるほど、いわれてみればそのとおり。なにかいいことが起こりそうな感じ、これから楽しいことが待っているような予感、それを朝に、土曜日に、7月の夏に、感じていたのだ。
 それは学園祭の前日のワクワク感である。祭りの当日ではなく、祭りの前にこそ楽しみはある。そういうことなのだ。

 このような感情は、結局、オトナになりきれていないだけの、ひとつのコンプレックスであるのかもしれない。しかしそれでもいいのではないか。楽しい明日を夢見ることこそが一番の夢であるならば、それはそれで悪くない。そんな気がする。

99年07月18日

G式過剰