G式過剰



第25ステージ
『我が名は昇降鬼』

 寛容で穏やか朗らかな人生を送ろうとしている私。なのになんでこう苛つくことが多いのでしょう。決して好きで苛ついているわけではない。あぁ、それなのに… なぜ… なぜ!(カルシウム不足なのだろうか、オレ)

 オレにとって『イライラパーセンテージ』が必ずといってほど猛烈に高くなる場所がある。それはエレベーターだ。

怒髪 その1
『なぜ奴らは降りる前にのってこようとするのか?』

 エレベーターがとある階に到着する。ドアが開き、乗客が降りようとする。奴らはそのとき現れるのだ。奴らにとってはとにかくエレベーターに乗ることが至上命令。ただひたすらにドアに突進してくる。降りる者と衝突し、もみ合い、それでも譲るつもりはなく、あげくの果てには「早くどけ」と怒鳴る。なにを言っている、お前が邪魔しとるんじゃ。
 エレベーターは降りる人が優先。そういうふうに教えられて育ってきたオレは間違っているのか。いや、別に常識に縛られているつもりも、順番を守ることが大事とモラリストを気取るつもりも毛頭ない。効率の問題なのだ。エレベータ搭乗者は早く目的の階に着きたいのだ。そのためには、乗降者はすみやかに入れ替わる必要があるのは誰だってわかるはず。はずだ! ならば、どちらかが譲ることこそがその近道であるというのも容易に想像がつくはずだ! 急ぐ気持ちは誰でもわかる。オレだって急いでるのだ。もし速く目的地に着きたいなら一定のルールに従うことこそが効率的なのだ。だからこそ降りる者がいるのかどうかを乗る者は的確かつ瞬時に判断して行動せよ、とオレは言いたい。

怒髪 その2
『なぜ奴らは上り下りを確認しないで乗ってくるのか?』

 エレベーターがとある階に到着する。ドアが締まり、エレベーターが動き出す。そのとき奴らはうろたえる。1階に行きたいのに、エレベーターは上っているからだ。それは誰のせいでもない、そもそも上下を間違った自分が悪いのだ。なのに「なんだよチクショウ、バカヤロウ」とギュウギュウ詰めの室内で勝手に逆切れする。いい大人が。
 とりあえず、眼の前のドアが開いたら乗ってしまうというのは、あまりにも短絡的で無思考な行動である。仮にもエレベーターに乗ろうとする者ならば、やって来たエレベーターがこれから上に行くのか下に行くのかぐらいはあらかじめチェックしておいて然るべきではないか。もし間違えて乗ってしまった場合、自分が時間をロスするだけだからいいだろうというのは大いなる間違いである。他の乗客に対しても無駄にエレベーターを1回停止することで無駄に時間をとらせてしまう大罪を犯していることに気づくべきだ。

怒髪 その3
『なぜ奴らはボタンを連打するのか? 上り下り両方のボタンを押すのか?』

 エレベーターを待っている。そのとき奴らは後ろから腕を伸ばし余計なことをする。上りのボタンは押されているのに、下りボタンも押すのだ。もちろん奴らが行きたいのは“上り”であることは言うまでもない。
 行きたい方向のボタンだけを押しておけばいずれエレベータはやってくる。機械はあくまでも機械。よほどなにか別の意思が働かない限り1回ボタンを押せばそれでこと足りるのだ。それを「機械なんか信用できない」とばかりに何度も何度も何度も何度も押しまくる奴ら。その行為は単にせっかちな印象を回りに与えるだけ、イライラ感をまき散らすだけで百害あって一利なし。しかもだ。雰囲気が悪くなるだけならまだいい。上下両方のボタンを押すことで、止まる必要のない階でエレベーターを止めて、中に乗っている者の時間をロスさせている。そしてそれは自分の時間もロスさせていることになるのだ。そのくらいの創造力が奴らにはない。

 人間は考える葦である。とはよくいったもの。我々は常日頃から自分がこれからしようとすることに対して“行為とそれがもたらす結果”を考えながら行動すべきではなかろうか。もっとわかりやすくいえば「ちったぁ、頭使えってんだよ! もっとまわりのことも考えやがれ!」ということだ。これはもはや義憤である!

 というわけで、今回の教訓は『オレってもしかして閉所恐怖症?』というところで勘弁していただきたい。

2000年11月15日

G式過剰