今回は硬派でお送りしたい。
あれよあれよという間に、泣いても笑っても、寝てても起きてても、新世紀は訪れてきてしまったのである。
とりあえず世間では(特にマスメディアでは)、“21世紀”ということで「新しい時代の訪れ」であるとか「古い時代から変革」といったようなイメージのもと、新鮮感を作り出そうとしている。しかし、一般の人々にとってみれば、確かにひとつの時代の節目ではあるけれども、感覚的にはあまり“新世紀”という単位での受け止めかたはしていないのではなかろうか。おそらく“新世紀”ではなく“新年”という感覚のほうが強いように思う。その証拠に挨拶も、
「新世紀おめでとうございます。本世紀もよろしく」
ではなく、
「新年おめでとうございます。本年もよろしく」
という者のほうが圧倒的に多い。
ここ数年来の不況構造に対し、我々は“世紀末”というキーワードで安易に語りすぎていたのではないか。そのことによって、“不況のイメージ=世紀末”という意識づけができてしまっているのではないか。
世紀が変わっても不況的な社会の雰囲気はそう簡単に変わるはずもなく、故に、人々は、無意識下に世紀末的なイメージを残してしまっているのかもしれない。これじゃ、言葉だけ新世紀といっても実感がなくて当たり前だろう。
第一、たかが時計の針がパチンと動いただけで、輝かしい未来が訪れるわけではないのである。今日はあくまでも昨日の延長線上にあり、その積み重ねが未来を作るのだ。
それ以前の話として、“世紀末→新世紀”という世紀越えをどうイメージするかという問題もある。そんな超長期的スパンで物事を考えようとしても、そうそう簡単にできるはずがない。なにしろほとんどの人は世紀越えは未経験だからだ。
よく「21世紀について、こうありたい」という夢を描くが、それは21世紀が“未来”だからこそ成り立っているわけで、それが今現在の生活の延長線上としてリアルに存在されても困ってしまうわけである。
人が想像しうる範囲は、長くともせいぜい10年、一般的には1年ぐらいが普通だろう。今まで生活してきた中で“年越え”というのは何度も経験しており、学校や会社なども1年のスパンで動いているわけで、「年が変わってたらどうしよう」というようなイメージは作りやすい。ところが「次の100年は…」といわれても、こちらは戸惑うばかりである。そもそも自分が生きてるか死んでるかわからないような先のことについて何を語れというのだ。
というわけで、つまり新世紀一発目の教訓は、
『遠くの新世紀よりも、近くの本年』
ということである。